日光御成街道を歩く  武の里住人
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日光御成街道(おなりかいどう)は、日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へお参りする際に利用された街道です。大手門を出て本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流するまでを言い、別称「岩槻街道」とも言はれます。
 我が住宅地の歩け歩けサークルでは日本橋を出発、何回かに分け、街道を歩き、先日さいたま市見沼代用水東縁近辺まで来ました。東北自動車道の浦和インターの近くです。時々途中の名所旧跡などに足を止めながらの歩きです。
歩いて見て感じたのですが日光街道が概して平地の中を行くのに対して御成街道は台地というか、周りより比較的高い所を通っていて坂道が結構あります。
また北に向かってこの道の右側にある神社は香取神社の名のところが多く、逆に左側は氷川神社が多いようです。
時には埼玉緑のトラスト第一号という竹林の中を歩いたり・・・
こんな風景の中を歩くこともあります。
曹洞宗のお寺で国昌寺と言う。前に山門があり、左甚五郎の作と伝えられる
竜の彫刻が欄間にある。
竜は水と関係あるため、見沼地帯の治水や開拓で苦労した先人の
祈りが込められているともいう。
また前の画の中央の大きな木は「センダンバノボダイジュ」と言い、
葉がセンダンの葉に似ていて実は数珠の玉になるという。
真言宗智山派のお寺で総持院と言う。1577年に開かれたが
明治時代火災で消滅、現在のはその後再興されたもの。
牡丹寺として有名で境内には650株程のボタンが植えられていると言う。
大きな山門があり、上方には梵鐘が吊られている。
鐘楼門と言うのは珍しい。写真が暗く鐘が見えないのが
残念。
この辺で見かけた富士山。
電線が邪魔だが場所を探していると皆に遅れてしまうので
取り敢えずパチリ。

大雑把に電線を消してみました。


やあ! お蔭ですっきりしました。
膝子一里塚。江戸から八里、岩槻へ一里の距離に位置している。
一里塚は江戸日本橋を基点とし、各主要街道沿いに概ね一里毎に築かれていて
道の両側に大きさ5間四方程、塚上にえのきを植えてあったが、現在は道路拡張等で小さくされてしまった。但し今残っているのはさいたま市内でここだけという。現在の道路名ではこの地点は県道105号に面しています。
さぎ山記念公園にはいつも釣りを楽しむ人が集まっています。
この辺はかって野田のさぎ山と呼ばれ江戸時代には幕府からもさぎの営巣地
として保護されていた(底が浅い田圃や沼はさぎにとって最適地)そうで、
昭和に入っても特別記念物などの指定を受け昭和32年には6000個の巣があったが
40年頃から激減、59年には営巣も無くなり指定も解除されたという。
住宅の増加、交通量の増加、竹林の減少、田圃の減少等が原因と見られる。
今は記念公園となっている。
記念公園に隣接する自然公園。鴨が数羽いつも心地よさそうに
遊んでいます。
神田明神。(最初の方に戻ります)
 日本橋を起点とした主要五街道(東海道、甲州街道、中山道、奥州街道、
日光街道)のうち、その主要街道のひとつの「中山道」は日本橋を発し
本郷追分(東大農学部前)で左に折れますが、そこをそのまま直進して
行くのが支街道の御成街道です(将軍家の専用道路です他大名の使用を
禁止していたとのこと)。
神田明神は家康が関ヶ原の合戦前に祈願したという所で、江戸幕府により
江戸の総鎮守として保護され、以後江戸が東京となっても広く人々の崇敬を
受けてきたという。
南谷寺(なんこくじ)と目赤不動。江戸五色不動の一つ。
目赤、目白、目黒、目青(世田谷教学院)、目黄(台東区永久寺)を江戸の五色不動という。天台宗 大聖山南谷寺の万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授かり、その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。更に三代将軍家光が、ここに立ち寄った際、赤目不動を目黒・目白に準じて目赤と名付けよと命じ、寺地を与えた。それで現在地に移転し「目赤不動」と名乗ったとのこと。
本郷追分には酒類や味噌醤油を扱う大店の高崎屋と、青果の大店八百屋太郎兵衛の店があった。寛文七年に生まれた太郎兵衛の娘が「八百屋お七」である。
(中央線の吉祥寺はこの吉祥寺の門前の農民が新田を開いたことから名付けたという)。このお寺に八百屋お七の比翼塚というのがある。実際のお墓は円乗寺というお寺にあるらしいが文学愛好者などにより立てられたものとか。

高崎屋は当初上方方面から酒、醤油そして米までも船で江戸に運んでおり、これを「下り物」と言い、地場の食品は味が劣ったことから「下らない」とよばれ二級品以下の扱いだったという。

吉祥寺。この寺の縁起は、太田道濯が江戸城を築く際に井戸を掘ったところ、地下から「吉祥増上」の刻印が出てきた。そこで庵を建て、これを祭ったのがはじまりで、この「吉祥庵」は、のちに水道橋に移転し、明暦の大火後、ここに移った。その時、近辺に住んでいた人々が立ち退かされ、現在の東京郊外の吉祥寺を開拓したという。吉祥寺の地名は、このお寺から来ているという。
当寺は曹洞宗の学問所で千名からの学僧が修業していたとのこと。また二宮尊徳や榎本武楊の墓がある。
富士神社。江戸時代は富士山信仰が盛んとなり富士の浅間神社にお参りに行く「富士講」が数多くでき、模造の富士山もあちこちに造られた。 この富士神社も本郷の名主が駿河の富士浅間神社を本郷に勧請したことに始まり元は今の東大辺りにあったのが現在地に移されたものとか。「駒込のお富士さん」として地元の人に親しまれ、毎年富士登山が解禁される6月30日、7月1日の「お山開き」の日には、広い境内に多くの露店がでるお祭りが開かれにぎわうという。
六義園を左に、駒込駅を右に見ながら街道を直進、ソメイヨシノの発祥地、
旧古河庭園、西ヶ原一里塚(日本橋から二里目)、飛鳥山(桜の名所)など
割愛。

明治の実業家であり日本の近代社会の基礎を築いた渋沢栄一の邸宅跡。
石造りの書斎「青淵文庫」。すぐ傍に木造の茶室「晩香櫨」があるが、
バンガローからもじったものとか。
 
西音寺。真言宗智山派のお寺で、無量山竜谷院と称する。本尊は不動明王像。「王子町誌」には、文明二年(1470)玄仲法印が太田道灌の帰依を受けてこの寺を創建したこと、「下り松」といって江戸時代に広く知られた名木があり、明治元年落雷に裂かれて枯死したが、三代将軍家光日光社参の折この寺院に休む度、その松の下から辺りを眺望した旨記されているという。
北区中十条3−27
普門院鐘楼門。号は「妙覚山蓮華寺」。本尊は「聖観音菩薩」。
石門の上に楼閣を乗せた形の山門はめずらしい。鐘楼門というが鐘は無い。
境内は純な日本式墓地。前は中国風、中は日本風、後ろをみればインド風(インドの仏塔を模した納骨堂がある。)となんとも風変わりなお寺。
(北区赤羽西2-14-20)
静勝寺(じょうしょうじ)。東京都北区赤羽にある曹洞宗の寺院。
JR赤羽駅の南西、徒歩3分。小高い丘陵の上にあり、戦国時代には太田道灌が築城した稲付城があったところ。境内一帯は稲付城跡として東京都の旧跡に指定されている。
稲付城は江戸城と岩槻城を中継するために築かれた山城で、寺は道灌の死後、道灌が師と仰いだ雲綱和尚が城の一角に草庵を建てたのにはじまる。その後明暦元年(1655年)、道灌の子孫の太田資宗が境内を整備、堂宇を建立して静勝寺と名を改めた。
(東京都北区赤羽西1-21-17)
宝憧院(ほうどういん)。医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する。寺の本尊は薬師如来像。寛正2年院で(1461)開山。この宝幢院の門前に元文五年(1740)のものという古い道標が残っている。この地点で西から来た板橋道と南の江戸から来た日光御成街道が合流して、東の川口・岩槻へ向かうことになる。
石柱の正面には「南江戸道」、右側面に「東 川口善光寺道 日光岩付道」、左側面に「西 西国冨士道板橋道」とある。
 
 
通りすがりに見た一軒の酒店。初代小山新七が酒造に適した湧水をこの地で発見し、明治11年に創業し、以来東京都23区における唯一の酒蔵として現在に至っているという。日本酒「丸真正宗」の醸造元として知られる小山酒造。JR赤羽駅から徒歩15分ほど、荒川がすぐ近くにある。昔は湧き水だったが今は地下130mから汲み上げた水を使用しているという。(工場はこの後ろ)
(北区岩淵町26-10)
やっと東京都と埼玉県を結ぶ新荒川大橋までやってきました。この新荒川大橋は二つの川を渡ります。一つは川越から流れてきた新河岸川ともう一つは山梨県、埼玉県、長野県の3県にわたる奥秩父連山の主峰甲武信岳から発した荒川です。岩淵ここに橋が架かったのは昭和3年で今の橋は2代目とか。荒川は文字通り荒ぶる川で古くから幾度も氾濫を繰り返してきたという。
岩淵水門。岩淵水門から下流が現在の隅田川で、昔の荒川の本流であり,大雨が降るたびに都内で洪水を引き起こしていたため、明治43年の大洪水を契機に、明治44年から新しく人工的に作った放水路が,現在の荒川(画面左側方面)。つまり,岩淵水門から河口まで約22km(川幅500mの今の荒川は,全て人工的に作った川なのです。全体の竣工には20年の歳月を要し、昭和5年に完成。
 そして放水路に合わせ、新しい荒川放水路と本流であった荒川(現隅田川)との分岐点に設けられた水門が「岩淵水門」である。大正5年から8年間の歳月をかけて建設されました。これにより隅田川に入る水量が調整可能となった。
 昭和30年代の改修工事で赤い色に塗りかえられたことから「赤水門」という愛称で親しまれてきた。その後,施設の老朽化や洪水調整能力のアップ化のため,昭和50年から新しい水門の建設に着手、昭和57年に新しい青い色の水門が完成し,機能の役割が引き継がれた。 旧岩淵水門は歴史的建造物として東京都より選定されています。
新荒川大橋上から。左上流方面にJR京浜東北線の鉄橋、対岸が川口市
新荒川大橋の下、荒川と新河岸川にはさまれた所は、荒川緑地公園として
整備され、きれいな公園となっています。
さらば東京・・・なんて言ってたのかな?
この新荒川大橋の長は673m、1971年(昭和46年)完成。現在は国道122号という名の道路が通る。
いよいよ眼前に迫ってきたこの建物、エルザタワー55という名の超高層マンション(手前はエルザタワー33という)。T工務店が1998年に建設、高さ185mで650戸が入っており当時は日本一の高層マンションだったという(現在は5番目とか)。東武日光線に乗っていると北越谷辺りから見え始め、北千住の駅に着く直前、荒川の鉄橋を渡るまでほぼ見ることが出来る。
鎌倉橋の碑。橋を渡って川口市に入ってすぐの所にある。昔、土橋があったという。
鎌倉街道という呼び名は大きく分けて上道、中道、下道があり(更に支線がある)、埼玉に限らず各地にあるようで、ここの道は中道に属するようです。鎌倉時代から御家人という武士の中でも上層部に属する人達が「すわっ!鎌倉」と鎌倉へ駆けつけた時、通った道の名残り、いやそれよりもっと古くから道はあったということですね。頼朝の挙兵に応じて義経が85騎を従え、1180年奥州から駆けつけた時もここら辺りを通ったという。

東京にもありますね

大手町と神田を繋いでいる橋ですね

真言宗智山派 錫杖寺(しゃくじょうじ)。錫杖とは僧侶・修験社の持つ杖で、頭部は錫(すず)で作られ、数個の鐶を掛けているという。開基は天平12年(740)の春、行基によって草庵が結ばれたのが創めと伝えられている。元和8年(1622)2代将軍秀忠、日光社参の折、御休息所となり、以来これが縁で徳川家と深い関わりをもつことになり、歴代将軍の日光参詣時の御休息所、或いは鷹狩りの際の御膳所として利用された。山門に掛かる看板には「関東八十八霊場 第七十六番札所」と書かれている。
本堂。何度か火事で焼けては再興され現在のは昭和50年に新築されたものという。この写真では判らないが本堂屋根の頂上にある寺紋に徳川家の三つ葉葵が飾られている。
実はこの本堂の裏手に、NHK大河ドラマ「篤姫」のなかで人気が出て有名になった江戸城大奥最後の御年寄「滝山」の墓がある。滝山が乗ってきた駕籠(かご)も保存されているという。何故、川口かといえば、滝山に仕えていた侍女の生家を頼って来たようとのこと。
  ちょっと変わった洋風の建物は旧田中家住宅。田中角栄さんとは関係なく、江戸末期・明治初期のころから材木業や味噌醸造業を創めて財を成した地元の名家。県議や貴族院議員を勤めた4代目が、大正10年に建築したもの。煉瓦造り3階建て。英国のチューダー・ゴシック様式を踏襲したものという。5代目も戦後、川口市長を務めた。洋風だが中には和室、蔵など和風もあり、日本庭園もある。市文化財センター分館として公開されている。国の登録有形文化財。(川口市末広1丁目)
無量寿阿弥陀如来をご本尊とする薬林寺は真言宗智山派のお寺。 開基は室町時代、開山は当山第一世法印宥淳和尚で、寛正元年(1460年)とされ 現住の第四十二世秀隆和尚まで綿々として続いている由緒ある古寺。 
   本堂。境内には他にも「岡の薬師」と称される薬師堂があり、中央には薬師瑠璃光如来(この尊像を岡の薬師と称す)左右の脇士に日光、月光両菩薩を、護法神として十二神将などが安置されています。  この寺の境内に 第二次世界大戦中の日英海軍によるインドネシア沖海戦で、漂流中の英兵422人を危険を顧みずに救助した旧日本軍の駆逐艦「雷(いかずち)」の工藤俊作艦長という人の墓があり、氏を偲び日英関係者100名余による墓前祭(実行委員長・平沼赳夫衆院議員)が先月7日行われました。秘話を最初に公表した元英海軍士官サミュエル・フォール氏(89)も出席し、「あの日は人生でもっとも印象的な1日の1つ。(墓前に)感謝の念を伝えた」と語ったという。墓前への献花では、高齢のため車イスを使うフォール氏が「座ったままでは失礼」と立ち上がって敬意を表し、戦時に工藤艦長が示した武士道に英国の騎士道で返礼したという。(この話はあとで知りました。) 
   長久山真乗院 真言宗智山派のお寺。川口市石神1253  いくつかの神社仏閣を見ながら鳩ヶ谷市を過ぎ、ここは川口市北部。 中興開山は尊雄と言う人で寛永5年(1628年)3月1日入寂という。 中興より現住職まで23代を数えるというが、開祖はいつ頃で誰なのか知らず。 
  境内にある立木の高野槇は樹齢800年とされ、樹高18m、幹回り4.5m、根回り7.8mと堂々たるものである。そのほか推定500年以上のカヤやスダジイの大木などもあり市の天然記念物に指定されている。これらは植栽樹と言われその樹齢から、このお寺の開山は鎌倉時代以前ということだろうか。高野槙の名の由来は、和歌山の高野山に多いマキの木の意味で、このような植栽樹が何百年にもわたって生育し続けられたのも、寺院という特別に保護される環境にあったからであろうという。  
  下手な写真アングルでその大きさを充分伝えられないのが残念。  
  大門神社(さいたま市緑区大門2933)。 日光御成街道の宿場町であった、大門町の鎮守として祀られてきた大門神社には多くの摂社(本社に付属し、その祭神と縁故の深い神社として祀られている神社)が祀られている。一の鳥居からはかなり奥まった所にある 
  古くはいつ頃からあったのか不詳であるが、現在の建物は比較的最近のもので 朱の色も鮮やか。 
  大門宿本陣の門。本陣とは 宿場に置かれた大名、公家、幕府役人などの貴人の宿泊施設。脇本陣はこれに準じる施設。大門(だいもん)宿は、本陣1・脇本陣1・旅籠6軒の小さな宿場であったが、本陣・脇本陣それぞれの表門が残されている。御成街道は岩淵宿(川口宿と一体で荒川が増水時などの臨時宿的性格)、川口宿、鳩ヶ谷宿、そしてこの大門宿となるが、初めてここで宿表門を見る。 かや葺きの長屋門で横に格子の窓があり番所となっている。 元禄7年(1694)建立で、修復されて現存し、県指定文化財になっている。  
  同じく脇本陣。やはり茅葺きの門である。 実際の日光参詣時ここには幕府の高官が泊まり、将軍はこの先の岩槻城に 泊まったという。将軍参詣ともなると将軍が岩槻に居ても最後尾はまだ大手門 を出ていないと言われる程、大掛りなものだったという。 なおこの持ち主は會田家という、大門宿名主や、紀州家鷹場の鳥見役も兼ねていた旧家で、今でもその子孫が受継いでいるという 
  大門宿本陣を見た後、御成街道は東北自動車道を浦和インター手前で北に向かって右から左へとまたぐことになるが、その直前天正19年(1591年)に寺領30石を徳川家康より寄進されたという真言宗智山派の古刹、大興寺(だいこうじ)へ向かう。 
   大興寺本堂。山号慈眼山観音院、本尊は不動明王。永禄年間(1558年〜70年)法印永義により開山、途中火災などに会い、現在の建物は昭和51年に新築されたものとか。入口付近にはたくさんの石仏、石碑があり庚申塔、徳本上人念仏供養塔などもある。大門宿本陣会田家歴代の墓があり、また大門という地名は この寺の門に由来するとか。 
  茅葺の鐘楼。境内のヒイラギ、ヒヨクヒバ、ウメなどの古木はそれぞれ市指定の天然記念物になっている。 
  見沼代用水東縁の風景。 見沼代用水路は利根大堰(埼玉県行田市)を起点とし、幹線水路の総延長は約70km、8市6町を流下し、埼玉県をほぼ南北に横断している。見沼代用水は8代将軍、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛によって、享保13年(1728)に建設された農業用水路で幹線水路は、上尾市の瓦葺(かわらぶき)で、西縁と東縁(にしべり、ひがしべり)の2つに分岐している。この建設は、灌漑(農業用水の取水、水不足の解消)だけが目的でなく、干拓(見沼溜井を含む低地に数多く存在した湖沼や溜井の干拓)、治水(洪水防御、見沼新田の排水のために見沼中悪水路を開削。)運河(見沼通船堀を建設し、見沼代用水の沿岸地域と江戸を結んだ水上輸送を確立)までも含んだものであり、本邦初ともいえる広域に及ぶ総合的な土木事業だったという。最近では農業用水の比重は減りつつも都市化による都市用水(水道水)としての利用も行われているとか。 
  同じく見沼代用水東縁の風景。  
  岩槻市街へ、いや歴史と人形の街さいたま市岩槻区市街へ入りました。東武野田線岩槻駅に近く曹洞宗芳林寺あります。 城下町であった岩槻には、岩槻城ゆかりの武将や大名の墓所・霊廟を祀っている寺社が多く、芳林寺もその一つで、太田道灌の供養塔があります。岩槻城は道灌の父道真が築城したと云われ、その子孫の太田資正が東松山から道灌の遺骨を当地に移し、資正の子氏資が母の芳林尼の追慕のため、寺名を芳林寺としたと伝えられています。
  太田道灌公 (1432〜1486) 銅像。 武略に秀でるとともに、岩槻城・江戸城・川越城 を築くなど築城の才能も充分に発揮し,さらに漢詩や和歌の道にも優れた文人武将であったことから、古くよりその徳を慕う人々が多かったという。
  町を歩いていると、やはり人形の看板が目に付きます。  城下町として、また宿場町として賑わった岩槻には、日光東照宮の造営、修築にあたった工匠たちが、そのままここに足を止め、人形づくりをはじめたという。岩槻周辺は昔から桐の産地で箪笥や下駄などの桐細工が盛んで、その伝統が現在まで続いています。 (隣町春日部も桐細工や羽子板が盛んで、職人が居付いた理由も同じです)
  人形の街ですが、特に雛人形や鎧兜などの五月人形が有名です。 人形歴史館というのもあります。
  浄土宗仏眼山浄国寺。1587年(天正15年)岩槻城主太田氏房の開基により創建された。江戸時代徳川家康公より寺領五十石の御朱印を賜り浄土宗学僧達の学問の修業場として 関東十八檀林の1つに数えられていたという。壇林とは仏教の学問所のこと。 あじさいのきれいな寺としても有名という。
  岩槻の寺社と言えば慈恩寺くらいしか知らなかったが、今回 古くからの由緒ある立派なお寺や神社がいくつもあることを知り 己が不明を恥じるばかり。

歴代住職による公務日誌「浄国寺日鑑」は享保元年〜明治四年まで158年間にわたり記されていて、埼玉県の文化財に指定されている由。

  光岩山釈迦院岩槻大師彌勒密寺。真言宗智山派、本尊は不動明王。 当山第一世開成和尚は光仁天皇の第一皇子桓武天皇の兄君で、宝亀五年(774年)の草創という。 岩槻でも最も古く由緒あるお寺。
  61年には関東三十六不動霊場の第三十一番札所に選ばれる。 (東武野田線岩槻駅より徒歩5分)
  遷僑館(せんきょうかん)。1799年(寛政11)、岩槻藩に仕えていた儒学者・児玉南柯が開いた私塾で、後に藩校となる。児玉南何は諱をj、字を剛郷、通称を宗吾、号は南柯。延享三年(一七四六)甲府で生まれ、武蔵武士の雄族豊島氏の後喬という。
  茅葺きの平屋。広さは40坪程。
  市内で時折見かける、御成街道の表示。
  前掲分の修正版。
目障りな看板にご遠慮願いました。
  浄土宗快楽山微妙院浄安寺。本尊は阿弥陀如来。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅ぶと、岩槻城主太田氏房も城を追われ、やがて関東の領主となった徳川家康は、高力清長を二万石で岩槻城主として封じた。清長は、落城により城下町から離散した領民の還住を促し、村々の復興に努めるとともに、領内の有力寺社の懐柔にも努めた。 七十九才という高齢で没しここ浄安寺に葬られた。
  山門をくぐると、境内は落ち着いた雰囲気が漂い、正面に本堂、左手に閻魔堂、抱き揚げ地蔵尊などが並び、その奥に墓地が広がっている。儒学者児玉南柯の墓 もここに祀られている。
  愛宕神社。岩槻区本町三丁目 神社の創建は不明だが、いい伝えでは、太田氏が岩槻城を築いたときに小さな祠を見付け、それを土塁上に移し祀ったと言う。 戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と塀で囲みその長さは約8kmに及んだいたという。この土塁と塀を大構えという。この大構えは天正年間(1580年頃)、小田原の後北条が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻場外の町場を城郭と一体化するため築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。現在は一部が残っているに過ぎないが、愛宕神社が鎮座するこの土塁は大構えの姿を今にとどめる貴重な遺構と言われている。
  岩槻城と城下町の図。何となく配置が江戸城に似ている感じ。 元荒川(本来の荒川)を背にお堀に囲まれている。 愛宕神社は左中下に位置。(大構の表示の下方)
  岩槻城の鐘楼。寛文11年(1671)当時の岩槻城主阿部正春が、領内に時刻を知らせるために設置したという。その後火災で亀裂が生じたため享保5年(1720年)に改鋳し現在に至っているが、今も午前6時と午後6時には、市民に時を知らせている。 「時の鐘」と言えば川越も有名だが、10カ所以上あったと言われる幕府公認の江戸の鐘を含め、現在も一日に複数回の時を知らせ続けているのは、上野寛永寺の鐘、川越の鐘、岩槻の鐘の3カ所だけという。
  岩槻久伊豆神社。さいたま市岩槻区宮町2-6-55。 今を去る千四百年前、欽明天皇(539〜571年)の御代、出雲の土師連の創建したものと伝えられていて、その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際、城の鎮守として奉鎮したという。 土師氏(はじし)は古代の氏族。 天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われ、渡来系とも言はれる。古墳を作ったり葬送儀礼にも携わった。
  最初の鳥居を入ってから結構参道が長い。道の左右は高い樹林で囲まれている。 以前御成街道を北に向かって右側は香取神社、左側は氷川神社が多いと言ったが その間をぬうように、久伊豆神社が元荒川沿いに点在している。これは平安時代末期の武士団である武蔵七党の勢力範囲とほぼ一致していると言う。
  祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)。土地を拓いて国を造り治め、さまざまな文化を人々に授けたという国造りの神様。この神社境内も岩槻城址の一部であり、岩槻の総鎮守とされている。 名前が「くいず」とも読めることから「クイズ神社」とも呼ばれ、岩槻久伊豆神社が第11回アメリカ横断ウルトラクイズ(1987年)の国内第二次予選会場として選ばれ、その影響で岩槻久伊豆神社の知名度が高まり、近年クイズ番組での優勝祈願に訪れる者も増えているとか。
  天台宗華林山慈恩寺(最上院ともいう)。さいたま市岩槻区慈恩寺139所在、御本尊は千手観世音菩薩。 天長元年(824)慈覚大師円仁により開山された古刹。 寺名は開山の慈覚大師が唐に渡って遊学した長安の大慈恩寺からとったもので、大慈恩寺は天竺から仏典を持ち帰った玄奘三蔵(「西遊記」の三蔵法師のモデル)が漢訳に従事したお寺であるという。 また鎌倉時代から続く坂東三十三観音の12番札所として知られ、参拝者も多く、有名なお寺です。この後13番札所は浅草の観音様、浅草寺だそうです。
  玄奘三蔵霊骨塔。 「西遊記で知られる三蔵法師(玄奨)は、西暦602年中国に生まれ経典を求めて天竺(インド)を志し、幾多の辛苦を克服して17年に亘って仏典の蒐集研鑽に励み、しかも帰国後63歳で還化されるまでに、大般若経六百巻等千三百余巻の経典を訳した。その業績は中国、日本仏教史上に不滅の光を放つ不世出の高僧である。長く不明であった霊骨が昭和十七年に南京において発見され、日本にも分骨贈与されて当山が法師有縁の地として、昭和25年十三重の塔を建立し全仏教徒の聖地とすべく奉安したものである。  慈恩寺観音住職」 塔の傍に説明文が掲げてあった。 (後記:岩槻を巡った一日は朝から小雪がチラつく曇天で、どの写真も画面が暗    く申し訳ありません。)
  現在、岩槻城址公園内にある岩槻城の城門。黒門と呼ばれている。1871年廃城後は浦和市、埼玉県庁などに移動されていたがその後岩槻市の現在地に戻された。 城のどの部分の門だったのかは定かでないという。 「御成街道を行く」で立寄る予定だったが、天候不良で先を急いだ為中止した所。
  既に何度かこの掲示板にも掲げていますが、ここも先を急いだことと ポピュラーなので省略された所です。 城址略図では右下の奥の辺りです。
  戦国時代から江戸時代にかけて、岩槻城の城下町や日光御成道の宿場として都市形成が進んだ岩槻。江戸時代には大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷)が、岩槻街道沿いに町家(商工業地)が配置され城下町として発展、家康を祀る日光東照宮が完成し、日光への御成が岩槻街道(日光御成街道)を通るようになると、城下町は宿場町としても発展していく。 武家地と町家を結ぶ所には警護の為、口という木戸口が設けられていた。この道路標識が立っている所は渋江口という通りの始まりの所。
  龍門寺山門。山号は玉蜂山。曹洞宗のお寺で1550年の開基と言われる。
  江戸時代後期の岩槻城主大岡家の菩提寺として岩槻藩の手厚い保護を受けたこともあり、多種多様な文化財・歴史資料が伝えられている。岩槻城主大岡忠光の墓。鎌倉時代の刀工、助真の作といわれる刀剣(国の重要文化財)。手無し不動の伝説を持つ「不動明王」。岩槻藩士山県大弐筆「大岡忠光行状記」等々。 龍門寺本堂。さいたま市岩槻区日の出町9-67
 
  元荒川を渡る。岩槻区上野で橋の傍から上流を見る。
  同じく下流方向をみる。川の右側2km程前方に、岩槻城がこの川を背後にして 構えていたわけである。勿論現在とは川幅・水量・形状も違っていたと思われるが(昔は本流)、この辺りが北へ渡る又は北から入る拠点となっていたわけで、岩槻城もその守りの為築城されたという説もあります。
  岩槻区も北部にやってきました。 日光街道草加市の旧国道4号線の並木道のように、御成街道にもこの辺り約 300m程の間ですが杉並木道が残っています。家光の頃整備されたとのことで 今残っているのは道の両側にわずかですが、昭和61年「ふるさとの並木道」として埼玉県が指定しています。
  曹洞宗宝国寺。岩槻区鹿室。 御成街道に面し、一見あまり特徴がないお寺のようだが、お寺の掲示板には 開山が1400年代後半上総国葛飾郡山王山村(五霞村)の東昌寺の末寺で、徳川家実記によると、十代将軍家治や十二代将軍家慶など歴代将軍が日光社参の折、門外富士見所で茶屋を設け休息したと記されているという。 岩槻や春日部には曹洞宗の寺が多いが、曹洞宗は禅宗で、地方武士・農民の信者 が多かったことと繋がっているのだろうか?
  岡泉の交差点。 ここで御成街道(ここでは県道岩槻幸手線65号)は春日部菖蒲線(78号)と交差する。
  下野田の一里塚。(白岡町) 江戸日本橋から11番目の一里塚で、街道の両側に塚があり榎木があるのは埼玉県でもここだけという。(県史跡) もともと中国にあった制度を取入れ制度化したのは徳川家康だという。
  上記
「下野田の一里塚」
の写真から電線を除いて見ました、すっきりすると共に空が広がった感じがします。
  こじんまりとした和戸駅 東武本線下りは東武動物公園駅を過ぎると日光線と伊勢崎線に分かれますが、 和戸駅は伊勢崎線の最初の駅です。前回は岩槻から和戸まで約12kmを歩きました。ゴールまでもう
  大落古利根川(おおおとしふるとねがわという)。 埼玉県を流れる一級河川。利根川水系中川の支流であるが、元々は旧利根川の 流路で、春日部市内へと続いている。
  一里塚。前回の下野田より一里。
  昔は道の両側に塚はあったという。
  八幡神社。杉戸市下野。近くに東和大昌平高がある。 慶長2年(1597)に信濃国高遠(長野県)から土着した木曾源氏落合図書頼仲が、同11年に氏神として祀ったのがはじまりと言われている。 祭神は応神天皇。村の鎮守として祀られるようになり、毎年3月15日の春祭りは「辻固め」と言って農作物の豊作祈願や悪疫退散を祈ると言う。
  社の傍にあった庚申塔。今まで歩いて来た御成街道沿いにも幾つか見かけています。庚申塔または庚申待については Wikipediaでご参照下さい。
  昭和30年頃まではまだ幾らか並木らしく残っていたようですが、交通の発達、道路の拡幅などで、今では名残を辛うじて見る程度となってしまった。
  琵琶溜井。東武日光線の幸手駅から南西へ700mの街道沿いに位置する。 琵琶溜井は1660年に関東郡代伊奈忠克によって造られたものという。 名前の琵琶は溜井(ためい、溜池)の平面形状が、楽器の琵琶に似ていることに由来するというが、現在の施設はゲートを備えた分水堰(注2)。琵琶溜井分水工と呼ばれ、コンクリートの隔壁が設けられた直流式の分水路(定比分水)で琵琶の形など想像も出来ない。
  ついに来ました。着きました。御成街道(65号線)と日光街道の交叉点。 本当? はい本当、ここが旧日光街道と御成街道の合流点なのです。拍子抜け… 実は旧日光街道は現在の国道4号線と多少ずれている所があるのですね。 御成街道が4号線に出会う少し前に交差したこの細い道、これが旧日光街道だったのです。 左手から出てきた道が江戸方面からの旧日光街道。歩いて来た御成街道は右のからの道。
  ゴールは国道4号線とばかり頭にあったもので、大きな道に合流すると思っていました。(実際この後4号線に繋がることは繋がっているのですが) でも何の印も無いのだろうか?
  あった! でも何とこの印のオオキイこと。これが日本橋から12里(48km)の行程を歩いてきたゴールの表示? 全く見過ごしてしまうところでした。 幸手市南2−10−30 
  帰りは幸手駅から東武電車で。 長いこと掲示板をお借りしての下手な写真にお付き合い頂き、ありがとうございました。